大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

宮崎地方裁判所 昭和53年(ワ)62号 判決 1981年3月30日

原告

河辺周一郎

右法定代理人親権者父

河辺一周

同母

河辺真理子

右訴訟代理人

高森浴

滝聰

被告

大迫英彦

右訴訟代理人

小倉一之

主文

一  被告は、原告に対し、金四四四〇万五八二三円及びこれに対する昭和五二年五月一五日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し、金一億円及びこれに対する昭和五二年五月一五日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者及び診療契約の締結

原告は、後記2の医療事故(以下本件事故という)当時九才の小学生であり、被告は、宮崎市において大迫外科病院を開設して外科の診療業務を行つていた医師である。

原告は、昭和五二年五月一三日午後八時ころ、被告から急性虫垂炎と診断され、被告により虫垂摘出手術を受けるため同病院に入院した。

2  本件医療事故の発生

(一) 原告は、翌一四日午前一一時ころ、被告より腰椎穿刺による麻酔薬ネオペルカミンS1.4mmの注射(以下、腰麻という)を受けた直後、血圧の急激な低下をきたし、呼吸、心拍が相前後して停止するというショック状態に陥つた。その後、原告の自動呼吸、心拍動は再開したが、意識は回復せず、現在まで意識不明のいわゆる植物人間の状態が継続している。

(二) 右ショックは、原告が高度の脱水状態にあつたため発生したものである。<中略>

四  被告の主張

本件事故発生につき被告人は無過失である。

1  診療の経過及び事故の処置

(一) 被告は、昭和五二年五月一三日午後八時ころ、原告を初診し、血液検査の結果、早期手術を要する急性虫垂炎と診断した。原告は、緊急に手術を要する病状にはなかつたが翌日は土曜日であり、土、日曜を手術以外の治療で過すのは危険であるので、原告の母に手術を勧めたところ、その応諾を得た。

原告の母は被告に対し、原告は大病をしたことはなく、元気がよくて水をよく飲む、他に異常はない、と述べるに止まつた。そこで、同日午後九時過ぎ原告を入院させ、翌日手術すべく、原告に対し、絶食すること、明朝三時までは湯、茶、水に限つて飲んでよい旨指示を与えた。

(二) 翌一四日午前一一時ころ、原告を手術室へ移し、尿検査を行うとともに全身につき詳細に診察したところ、手術前の心理的影響と考える程度の血圧上昇(一二六/一〇二)があつたほかは、頻脈不整脈、心音の異常等はなく、少なくとも眼瞼のくぼみ、舌や皮膚の乾燥、尿量の減少、顔ぼうの変化等の脱水症状は見られず、尿(蛋白、糖、ウロビリノーゲン)についても異常はなく、腰麻及び手術に支障のある所見は全くなかつた。

(三) 午前一一時一分、被告は手術を開始、先ず原告に対し予防的昇圧剤としてエフェドリン0.8mmを皮下注射をするとともに、リンゲル液五〇〇mmを点滴静注を行い、同一一時二六分、腰椎穿刺によりネオペルカミンS1.4mmを注入したところ、原告には、数分後から腰麻による定型的副反応としての血圧降下が認められたため、念のため強心昇圧剤ネオシネジン一号一mmを点滴内に混合し、さらにマスクによる酸素吸入を開始した。その結果、血圧は八六/六六を最低として徐々に上昇して九六/六八に達した。

また麻酔効果、範囲は正常で、原告の胸式及び腹式呼吸も正常で、その意識は清明であつた。

(四) 同一一時四四分、被告は執刀したが、原告の血液の色調は正常で、意識、血圧にも変化はなかつたが、約二分後血圧が急激に下降しはじめ、同時に術創の血液の色調が暗赤色を帯びはじめ、ショック状態が発生したため直ちに手術を中止した。

同一一時四八分ころ、原告の意識はこん濁し、脈拍微弱、呼吸困難となつたので直ちにマスク加圧人工呼吸を開始したが、一回の全身強直性けいれんを発現すると共に、同五三分頃自動呼吸停止、相次いで心停止が起つたので経胸壁心マッサージを開始した。同五六分心拍動再開、同五八分自動呼吸も再開した。この間終始エアウェイによつて気道は十分確保され、又、ショック状態継続中は、ラクテック点滴静注及び五パーセントブドウ糖点滴静注内にテラプチク三mm(呼吸促進剤)、デキサメサゾン八mg(副腎皮質ホルモン剤)、プロタノールL一mm(強心昇圧剤)、ジギラノゲンC二mm(強心剤)等の薬剤を混入投与した。

(五) 同一二時一〇分頃、ショック状態は脱出したが、被告の意識不明は持続したので、約五時間後県立宮崎病院へ転院させた。<以下、事実省略>

理由

一請求原因1、2の事実については当事者間に争いがなく、<証拠>によれば、被告の主張1の事実が、<証拠及び>鑑定人北原哲夫の鑑定の結果によると、本件事故は、原告が後に県立宮崎病院で判明した腎性尿崩症の疾患(多尿を特徴とし、水分補給が断たれると容易に高度の脱水症に陥る)を有していたため、手術前の長時間に及ぶ経口摂取の制限、数回にわたる下痢、嘔吐により高度の脱水症に陥り、循環血液量の減少、細胞内外液電解質の不均衡を招いていたところ、被告は原告が右脱水症にあることを知らず(過失の存否はさておく)、輸液補給による体液、電解質の調整を行わないで腰麻を実施した結果、原告は、血圧低下、呼吸抑制、同停止、心停止のショック状態に陥り、そのため脳への酸素供給が杜絶され、脳幹部損傷を受けたことにより発生したものであること、以上の各事実が認められる。

二被告の責任原因について判断する。

1  請求原因3(一)、(二)(1)<被告のショック招来の過失―編注>について

(一)  <書証及び>鑑定人北原哲夫、同吉川清、同恩地裕の各鑑定の結果によると、次の事実が認められる。

腰麻において高度の脱水症は禁忌である。蓋し、高度の脱水症は循環血液の減少、細胞内外液電解質の不均衡を生じているからである。そのため、術前に経口摂取の制限を伴う場合、原告のような小児にあつては、右制限開始を術前三、四時間まで遅らせ、その後は輸液補給により脱水状態に陥るのを防ぐのが通例である。又、高度な脱水症にある患者に対しては、術前に輸液を補給し、体液電解質の調整を計つたうえで腰麻を行わなければならない。その故、医師は腰麻を行う場合患者が脱水症にあるか否かを先ず確認しなければならない。

脱水症の存否は、血液電解質検査、ヘマトクリット値検査、尿比重検査、尿量検査などの諸検査によつて判定しうるが、手術の緊急性からくる時間的制約や一般開業医における技術的制約を考慮すると、右検査によつてのみ脱水症の存否を判定することは、必ずしも有効、適切ではなく、又、虫垂摘出のような小手術において右諸検査は一般化していない。そのため、脱水症の存否は、患者における水分等の経口摂取の制限時間の長短、嘔吐、下痢の有無、口渇の程度、脱力状態の有無、口内等の粘膜や皮膚の湿潤の程度、皮下静脈の状態等の所見により総合的に判定されることになる。

ことに、患者が腰麻ショックを起すような高度の脱水症に陥つている場合には、外見上明瞭に右異常所見がうかがえ、不顕性の脱水症はありえない。

従つて、脱水症の存否の確認においては、医師の患者に対する問診、視診、触診が非常に重要な役割を担うのである。

以上の事実が認められる。

右によると、医師が腰麻を行うに際しては、可能な術前検査を行うはもとより、患者に対し細心の注意をもつて問診、視診、触診を果し、脱水症の存否を確認すべき注意義務が課せられているというべきであり、而して脱水症の存在が判明すれば、前記の予防措置を講じたうえで腰麻を行うか、それが出来なければ設備のある病院へ転医させるべきである。

(二)  そこで、被告が原告の脱水症を看過した点に過失が存するか否かについて検討する。

被告は、原告には外見上脱水症の所見は全くなく、又、問診においても脱水症を疑うべき何らの根拠もなかつたと供述する。しかしながら、前認定のとおり、原告は腎性尿崩症であるため、術前八時間に及ぶ水分の摂取制限(この間、輸液補給はなされなかつた)等により、脱水状態に陥り、その後相当時間経過した手術直前にはそれが高度にまで進行していたことは明白であり、かつ、不顕性の脱水症はありえないことに照らすと、手術直前において、原告に何らの脱水症の徴候も発現していなかつたことは到底認め難いところである。右認定に反する証人古川正次の証言は信用し難い。しかも、被告は後記の通り原告の母から、原告が多飲であることを知らされている一方、原告に対しては右のような水分の摂取制限を行い、かつ、その間輸液の補給もなしていないのであるから、特に脱水症の発現に注意し、前記のような細心の注意をもつて問診、視診、触診を行つていれば、必ずや右徴候を発見しえた筈であり、かつ、被告がこれを発見していれば、被告は原告の母に対する問診を深めることも可能であり、その結果、原告が腰麻適応にないことを知り得たものというべきである(原告の母は、術前、被告に対し、原告が多飲多尿であることを告知していたと述べ、被告作成のカルテにも多飲、多飲多尿との記載が重複する。しかしながら、<証拠>によると、原告は、幼時からきわだつて多飲多尿であつたため、かつて医師の診察を受けたが、特に病気とはいわれず、ただ将来激しい運動でもする際には精密検査をする必要があるといわれたに止まることの他、原告は外見は極めて健康で日常生活において格別の異常もなかつたため、原告の母は何らの病識を持つていなかつたこと、同女は、原告が多飲であるから術前の摂水制限に耐えるだろうかと懸念していたにすぎないこと、カルテの多飲との記載は本件事故前日に、多飲多尿との記載は事故発生後に記入されたものであることが認められる一方、被告が原告の多飲多尿の事実を知りながらこれを無視して腰麻を行うことは認め難く、これらによると、原告の母の右供述は措信しえず、同女は被告に対し、原告が多飲であることを告げていたに止まるものと認めるのが相当である。)。

以上によると、被告には、原告の脱水症を看過した点に過失があるものと認めるのが相当である。

2  請求原因3(一)(二)(2)<被告の回復措置上の過失―編注>について

本件腰麻実施から事故発生に至るまでの経緯(被告の主張1)については、先に認定したとおりであるから、この点に関する原告の主張は採用しえない。

3  よつて、本件事故は、被告の右1認定の過失によつて発生したものと認められるから、被告は原告の本件事故による損害を賠償すべき債務不履行責任又は不法行為責任を負う。

三損害

1  <省略>

2  よつて、原告の被つた損害額について判断する。

(一)  逸失利益

二七八七万七八二三円

(二)  付添看護費用、諸雑費

九五二万八〇〇〇円

(三)  慰藉料

原告が本件事故で筆舌に尽しがたい精神的苦痛を被つたことは明らかである。而して、本件事故は、前記の通り、被告が原告の脱水症を看過した過失により発生したものといわざるを得ないが、原告が右脱水症に陥つた原因が原告の腎性尿崩症にあることも明らかである。ところが、被告は原告の、誠に重大な右疾患を事前に知ることはできなかつたのである。蓋し、右疾患は特異かつ稀有にして、虫垂摘出を目的とする被告が初診で発見しうるものではないし、原告の母にも正しい病識がなかつたため、被告に的確な判断資料を提供しなかつたからである。しかし、若し被告にして原告の右疾患のあることを知つていれば、本件事故が発生していなかつたであろうことは想像に難くない。してみると、右事実は、被告の過失を否定する根拠とはなし得ないが、慰藉料算定の斟酌事由として考慮すべきである。以上の他、本件に現われた全ての事情を総合すると慰藉料額は五〇〇万円とするのが相当である。

四弁護士費用  二〇〇万円

五<省略>

(蒲原範明 三谷博司 村岡泰行)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例